江戸時代と明治時代を結ぶもの
明治になる前から、維新は始まっていた
国立科学博物館(上野)に週末立ち寄った。梅雨も明け、子供を炎天下で遊ばすわけにも行かず、屋内で時間がつぶせそうな場所だったので、行ってみた。
標本が多く飾ってあって、恐竜のコーナーも充実しているので、子供も喜ぶかなあと思っていたのだけど、一番はまったのは自分だった。それも、「地球館の2階(科学と技術の歩み-私たちは考え、手を使い、創ってきた-)」だ。
元々、近代の中では明治時代が大好きだった。「坂の上の雲」に代表されるような、どんどん広がって行く未来への希望とか、近代国家への駆け上がり方には他の時代にはないスピード感があるので好きなのだと思う。逆に、江戸時代は退屈なイメージしかなかった。
ところがである。明治は、江戸時代から始まっていたのだ。
江戸時代は、情報が完全遮断された「鎖国」状態ではなかった
展示物の中に、江戸末期に作成された仕掛け時計「万年自鳴鐘(万年時計)」があった。説明を読み込むと、想像以上に、江戸時代の科学は進歩していたことが分かる。
西洋時計と和時計のほか、曜日や二十四節気、旧暦の日付、月の満ち欠け・・・。あらゆる"時の概念"、"匠の技"をひとつに凝縮したこの傑作の誕生により、嘉永5年(1852年)に「日本第一細工師」の招牌を受け、「田中久重」の名は世に知れ渡るところとなる。
そして、下記のブログにあるように、まさに時計は「魔改造」を施されていた。
江戸時代は、近代的なものや科学的なものが存在しない世界だと思っていたけれど、医学の分野でも科学の分野でも、一定の進歩はあり、しかも諸外国からの情報は入ってきていたように思える。しかも、我々が勘違いしているだけで、相当なレベルだったのではないだろうか。
スタッフの戦術的な理解度が高い状態のおかげで、維新戦略は成功した?
教科書に書いてある内容が信じられないのは、この江戸時代の天才達がどうやって育てられたのかが良く分からないことである。そして、富国強兵とか、拓殖産業的な根性論やスローガンだけで、明治の近代化ができるとは到底思えないのに、そこがショートカットされてしまう。
私が思うに、明治政府も、維新という「戦略」を実行するためには、戦後の産業育成に必要な人材の確保にメドを付けておかなければならなかったはずだ。そうしなければ、ギャンブルになってしまい、下手をすれば、清や朝鮮半島など当時のアジア諸国と同じように諸外国の侵攻を受けることになるということは十重に理解していたと思う。
そういう意味では、既に、国内に一定数の「戦術」理解度の高い人材が揃っていたのは、救いになったのではないだろうか。だからこそ、欧州であれば「革命」に近いイベントで国を分けた血なまぐさい戦いになるはずが、明治維新は、思ったよりも戦死者が少なくなったのではないだろうか?榎本 武揚を始め、旧幕府側には、戦後すぐに活躍してもらわないといけない人材が多かったのではないかと思う。
この天才達を生みだしたのは、江戸時代の教育教育思想や仕組みなのだが、時代が変わっても原理原則に強いイノベーティブな人材を育て上げていた仕組みを日本にあわせてカスタマイズして持ち合わせていた点は、現代でも参考になるところがありそうに思える。
万年時計を開発した「田中久重」は、東芝の創業者だった
ちなみに、冒頭で紹介した時計の開発者の、田中久重は、その後も多くのプロダクトを作り出している。しかも、70過ぎてから東京に上京し、80過ぎるまで一線で指揮を取っていたようだ。
- アームストロング砲
- 電話機
- 製氷機
- 自転車
- 精米機
- 写真機
- 昇水機
- 改良かまど
- 旋盤楕円削り機
- 煙草切機
- 醤油搾取機械
- 種油搾取機
- 報時機など
この、田中氏が創業したのが、実は「東芝」なのだ。知らなかった。
創業者は、稀代の発明家であったが、彼の死後は会社の拡大によって、創業当時の雰囲気は早々に消え去っていたのかもしれない。同様に、同時期にエジソンが創業していたGE社も、創業者の立ち去った後は、コングロマリットとして生き残っているところを見ると感慨深いなあと思う。そのGEと東芝は、戦前から資本提携していたことも、何かの因果を感じざるをえない。